R筋

プログラミング、金融、育児

希望によって未来はつくられる

親ガチャという言葉が流行っているそうだ。
https://togetter.com/li/1774473

自分の現状は、親の年収、容姿、教育など様々な「ガチャ」的要素によって作り出されているというのは実際のところ事実であろう。
成功した人は本人の努力だと言うだろし、くすぶっている人間に限ってこの言葉を使っているという批判をしている人もいるだろう。ただ努力できるということも親から様々な要素を引き継いだ結果可能になるものだ。

なかなか残酷な問題ではあると思うが、「ガチャ」というライトの響きによって、親から代々引き継いだダメな要素があるから今の自分が浮かばれないのは仕方ないという形で、自分を納得させる言葉にもなっているのではないかと思う。
そしてSNSで拡散され、似たような境遇の人々に共有される。
格差が広がり、固定化されている社会においては、とても相性が良いのだと思う。少し前には「上級国民」という言葉も流行ったが、いずれもそうやってレッテルを貼ることで現状を受け入れようというある種の薬でもあるのだろうが、人間の希望や向上心を打ち砕く毒でもあるのではないだろうか。

10年以上前だが、希望格差社会という本が流行ったことがある。いわゆる「負け組」という人々は競争社会において誰も手を差し伸べてくれないという状況が生まれ、それが「希望」をも失ってしまうということに繋がる。「希望」にも格差がある社会を迎えているという内容だった。
最近の情勢はかつて程、グローバル化という言葉を聞かなくなり、若者の間でも競争することに価値を見いだす人がすくないような印象を受ける。それでも日本全体の貧困化や目に見える格差の拡大によって「負け組」を救うということがより難しい社会は継続しているのだろう。
救われない「負け組」は努力することをやめて「親ガチャに失敗した」と嘆き「上級国民は優遇されている」と不満を言うしか、現実を受け入れるすべはない。希望格差社会はずっと拡大しているのだと思う。

wikipediaによると希望とは「好ましい事物の実現を望むこと」とある。何かを良い方向にすすめるためには、なによりも最初に希望を持つという行為が必要である。
何も望まないのにある日、お金や美貌や頭脳や地位が手に入ることはない。努力して手に入れるような類のものであったとしても、希望をもつからこそ努力をするのであって、よりよい自分を実現する第一歩として「希望を持つ」が必要なのだと思う。
みんながもつ様々な希望が、経済成長や技術革新を生み、いまよりもっと楽しい社会が作られるのである。
自己責任論で負け組を切り捨てることは、ある種の快感をも伴う。ただ、そうやって救いを立たれた負け組が失う「希望」の社会的損失を考えると、「勝ち組」も回り回って影響を受けることになる。
ただ、経済が成長することで個々人の未来についても希望が持てるというのが一般的な話であり、貧困化する中で希望だけを持つということは簡単ではない。未来が明るい社会を示すこと、作ることが、個々人の中に希望をもたせるという前提があるわけで、そこは自己責任に議論を終わらせてはいけない。

コロナ渦においては未来の議論はあまり進まない。すごく瀬戸際だと思うが、コロナがある程度収束したときにかこのある程度のしがらみがなくなっていて、ここからどうしよう、どうしていこうと考えるタイミングが来るだろう。その時、日本のみんな達、特に若い世代が、漫然と未来についてどう思うのか、その契機は、総裁選、テーパリング終了、エバーグランデの破綻危機、そしてコロナ収束と近く迫るイベントに左右される気がする。