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プログラミング、金融、育児

ビットコインのATHを祝しつつもみんなの目を覚ますためにブログに戻ってきた

 

www.nikkei.com


以前にビットコインのATHを書いたのは2021だったので、3年ぶりの快挙ですね。
2021年の最高値から、1/3まで落ち込んでの回復なので、
世の中の大半の養分投資家と同様にATHから騒ぎ出しているのは、2021年が繰り返されるならまた半額以下になるリスクも多大にありますので注意です。

人の行く裏に道あり花の山
という投資格言があるようだが、あらゆる投資はすべてこれだと感じる。
ニュースにもならないような年初来安値更新しているときに、いかにリスクを取るかによってパフォーマンスは大きく変わる。
そういう意味では、現在新NISAの投資先の王道と言われている、SP500も人気過ぎて危ないかもですね。(安値でも積み立て投資を継続できるならいいけど。)

ただビットコインに関しては、インフレ拡大、現物ETF承認、半減期などビットコインにとって追い風の条件が重なっていて、しばらくこのバブル相場が継続するのではないかという見立てが多い。

一番は、ビットコインETFの承認により、仮想通貨取引所以外でもビットコインに連動する商品に投資ができるようになったことで、機関投資家などに間口が広がったという影響が大きいためと言われていて、ビットコインは発行上限があるにもかかわらず、ETFの担保として連日数百億の買い需要発生しているため、マイニングされる供給量を圧倒的に上回るペースであることが、上昇要因となっていることが、前回のバブルとの最大の違いであると思う。

www.coindeskjapan.com

わかりやすく表現するなら、現在の1日あたりのマイニングによる供給は1000BTC
ビットコインETFによる1日あたりの購入は10000BTCとなっていて、10倍以上の需要があるのだが、あと2か月くらいで半減期となって供給はさらに減少する一方、ETFによる幅広い投資家の購入は広がっていくため、価格は上ざるを得ないのである!

技術的な部分について詳しくないため、ビットコインに本質的な価値があるのかはわからないが、需給を考えれば、みんなが欲しいものに価値がつくという理由から、今後も底堅い推移が予想できる。

 

ビットコイン保有するということは、投資というより、インフレ、円安により価値が大幅に棄損してしまった日本円ではなくビットコインで資産の価値を守るという行動なのではないだろうか。
大半の人間は、労働の対価として賃金を得るわけだが、当たり前のようにそれを日本円で保有するということは、日本円が棄損する場合、長期的に自分の労働の価値も下がってしまう。
老いによる能力の低下はあるかもしれないが、それを含めて、総合的には人間は昨日より今日が価値が上がっている。
年収1000万円を目指していても、1000万円の価値が下がる社会では、日々満足感がなくなってしまう。
年収1BTCを求める労働をすれば、BTCの価値に合う人間を目指すため日々更なる自己研鑽に励み、その労働が社会を豊かにして、経済がを活性化し、ビットコインの価値をさらに上げることで、より労働の意欲が生まれる。

かつてはそれが日本円のためだったわけだが、今はビットコインなのだ。

夢を壊してしまって申し訳ないが、ビットコイン投資はみんながあこがれの不労所得を得るためではなく、さらなる労働に励むという花の山に邁進するための道程なのである。ATHに浮かれていないでみんな今日のお仕事を頑張ろう

 

相手を信用し相手に信用されるために

 

走り書きメモ程度のブログ更新。

 

「はじめてのBillGレビューのこと」という記事を読んだ。

https://web.archive.org/web/20190406043653/http://local.joelonsoftware.com/wiki/%E3%81%AF%E3%81%98%E3%82%81%E3%81%A6%E3%81%AEBillG%E3%83%AC%E3%83%93%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%81%AE%E3%81%93%E3%81%A8

 

ビル・ゲイツExcelの仕様のレビューをしてもらったプログラマの話だ。ビル・ゲイツプログラマ気質で、事前に送った仕様書を細部まで読み込み、めちゃめちゃ細かいところの仕様について質問する。

 

「ビルは君の仕様を本当にレビューしたかったわけじゃなくて、君がしっかりコントロールできているか確かめたかったんだよ。彼のやり方は、相手が分からないと認めるところまでどんどん質問を難しくしていって、そうして準備ができてないじゃないかと怒鳴りつけるんだ。彼が考えた一番難しい質問に君が答えたらいったい何が起きるのか、実のところみんな見当がつかなかった。そんなことはかつて一度もなかったからだ」

 

でもその意図は、その仕様が知りたいわけではなくて、開発者が製品を本当に理解しているか、把握しているかを知りたいのだったという話だった。

で、この話は最近のマイクロソフトはマネジメント手法にばっかり気を取られてしまい、本当にいいプロダクトを作ることが難しいよみたいなことが書かれていた。

 

私も最近少しシステム開発の上流よりな視点で仕事をしないといけない状況になってきていて思うのは、システムってそのすべてを自分が理解することはできなくて信頼できる人が作っているかどうかが一番重要なんだろうなということだ。システム開発に限らず当たり前の話なのかもしれないけど。とにかく信用が一番大事で、信用できる人の報告は信用できて、その開発したシステムも信用できる。信用できない人の成果物は品質も信用できないのでじっくりレビューしないといけない。。

ビル・ゲイツくらいの立場だと、普段関わりない人の信用度合いを図るには、すごい細かい仕様の質問を1個してそのアンサーをもとに相手の信用度を判断するという方法をとっていたということなんだろうね。

社内SEとしての私の仕事は「システムベンダが作った◯◯システムが問題ない品質ものです!」ということを社内に説明するというものなわけであるが、ベンダの担当者の信用度に確信を得るとともに、私自身がユーザ部署の信用を得ないと、ベンダ→社内SE→ユーザ部署という流れでシステムをリリースするに至らないものであるので、信用できる相手であるかを見極めること、自分自身が信用できる人間であるということを示せること、どういうアプローチでそれぞれ確立するのか、考えてみよう。(まだ私に答えはない合掌)

 

 

 

 

仕事がしたくないときの対処法をご紹介します!

イントロダクション

誰しもが、時々仕事をすることに対してモチベーションが下がってしまうことがあります。しかし、仕事が完全に避けられない場合がほとんどです。この記事では、仕事がしたくないと感じたときの対処法をいくつか紹介します。

仕事へのモチベーションを上げる方法

  1. 目標を設定する

仕事に取り組むときに、自分にとって意味のある目標を設定することが重要です。例えば、プロジェクトの締め切りまでに必要なタスクを完了するという目標を設定することができます。このような目標があることで、自分自身を励まし、モチベーションを上げることができます。

  1. 肯定的な思考を持つ

仕事に対するネガティブな考え方は、モチベーションを下げることがあります。代わりに、肯定的な考え方に切り替えて、仕事に対する意欲を高めることができます。例えば、「私はこのプロジェクトを完了するために必要なスキルを持っている」と自分自身に言い聞かせることができます。

  1. 自分自身を報酬で励ます

自分自身を報酬で励むことも、仕事に対するモチベーションを上げる方法の一つです。例えば、プロジェクトの完了後に自分自身に好きなものを買うことを約束することができます。このような報酬があることで、自分自身をやる気にさせることができます。

仕事に取り組む前に行うべきこと

  1. 休息をとる

仕事に取り組む前に、自分自身に休息を与えることが重要です。適切な睡眠をとったり、リラックスするための方法を見つけたりすることで、仕事に取り組む前のストレスを軽減することができます。

  1. プランを立てる

仕事に取り組む前に、プランを立てることが重要です。どのタスクから始めるか、どのくらいの時間をかけるかなどを計画することで、仕事に取り組むときに集中力を維持することができます。

  1. 周りの人々と話す

仕事に取り組む前に、周りの人々と話すことも重要です。同僚や上司と話し合うことで、自分自身の考えを整理し、仕事に対するモチベーションを上げることができます。

仕事から離れる方法

  1. 趣味を見つける

仕事から離れるためには、趣味を見つけることが有効です。趣味を楽しむことで、仕事に対するストレスを軽減することができます。

  1. 自分自身に報酬を与える

自分自身に報酬を与えることも、仕事から離れる方法の一つです。例えば、週末に自分自身においしい食事をご褒美として与えることができます。

  1. リラックスする

仕事から離れるためには、リラックスすることが非常に重要です。ヨガやマッサージなどのリラックス方法を見つけることで、仕事から離れることができます。

コンクルージョン

仕事がしたくないと感じたときには、自分自身を励ます方法を見つけることが重要です。モチベーションを上げる方法や仕事に取り組む前に行うべきこと、仕事から離れる方法を実践することで、仕事に対するモチベーションを回復することができます。

 

 

 

というのはAIが書きました!

nortion AIというのが最近バズっていて、試してみたらもろそのままブログに載せれるやんというものを出してきたので、久々にブログ更新。

無料で使える。やることはこれだけだ。

まずnortionに登録する。

 

ワークスペースという作業領域でスペースキーを押すと、AIへの指示を書ける。

すごい勢いでAIが書き始めて、10秒後に完成。

 

ブログを想定した段組までできているので、あとはそのままコピペするだけだ。

chatGPTよりもかなり早い。AIが生み出した文書に対して、表現、言語、量を変更するのも一発で完了する。

もうブログなんて人間が書く意味はないだろう。モチベーションや意義もなくなる。

社内説明資料ばっかり作っている僕のしょうもない仕事もなくなる。仕事したくないときの対処法をAIが提案することで仕事したくなくなるというPARADOX。

最近結構このトレンドを追いかけるようにしているが、なんていうかAIの恐ろしいところは短期的には人間の目標が見いだせなくなってしまうことなんじゃないだろうか。英語の勉強、読書、プログラミング、執筆、作曲、どれも一瞬で圧倒するAIが登場したら、一気にやる気が失せる。コミュニケーションとか人間的な部分の強化とかを考えてみても、最近は自分の顔写真や声の録音から流暢なプレゼンをしている動画を作るAIなんかもあるそうだ・・

仕事の置き換えは必ず発生するだろう、何を目標にして、どうやって生きるのか(お金を得て生活していくのか)早急にAIに教えてもらわなくてはならない。

責任より愛のほうが大事じゃ

息子は最近5歳になりました。僕はもとから子供が得意ではないという自覚があったけど、まだ赤ちゃんの相手とかは、パターンがなんとなく確立できるのでなんとかなっていた。ただこれくらいの年齢になってくると、それなりに人格ができてきていよいよ接し方が難しく感じる。わがままはどこまで許容し、どこからは叱るべきか、叱るにしてもどうやって叱ればいいのか、良くない言葉を使うとき、からかってくるとき、大声で泣きわめくとき、色々な場面があり、なにしても正解の対応がみつからない状況が多い。
一方、最近妻はそういうときの対応が上手で関心する場面が多い。教育関連の仕事をしているので、もともとノウハウがあるようだが、それ以上に、様々なパターンをうまく治めている要因は愛をもって接するということのようだ。

この年頃の子供は、愛情を試すということをしてくる。やるなということをやったり、理不尽にわがままを言うのは、それを受け入れてくれるのか親の愛情を試しているのだと妻は言っていた。
僕の在宅勤務中に何度もPCのマウスを奪われた。その都度叱っては、取り返すという攻防を繰り広げていたわけだが、それはやはり子供にとっては、在宅勤務の間、僕が大切にしているのはマウスのように映り、それを奪ったときに自分を選ぶか、マウスを選ぶかということを試していたのではないかと思った。ほかにおもちゃもいっぱいあって、大して楽しくもないマウスを持っていくというのは、気を引くため以外ないのだから、「こら!」といって取り返すだけではなく、その場で息子がマウスより大切な存在であることを説明して、それでも在宅勤務時間中はマウスを使う必要があることも説明して、理解を得るという対応が必要だったのかもしれない。

以前も書いたが、10代になって非行に走る子供は無条件の愛をもって受け入れられていないということが多い。その原因は、まず愛されない理由を作って自分を守る必要があるからだそうだ。深夜まで遊ぶ、人のものを盗むなど親や周囲に迷惑をかけることは「そういう直接的な原因があって自分は嫌われている=だから愛されていないのは仕方ない」という自分の納得のたの自分を守るための行動となっている。おりこうに過ごしていて愛されない場合に、自分自身が否定されることになってしまうから、自分は非行をしているから愛されないという納得を求めてしまうのだ。また非行をはたらくことで、周囲の大人がすくならかず手を焼く必要が生じ、自分のことをかまってくれているという感覚を得られるという効果もあるだろう。それらを繰り返して、戻れないところまできてしまう。

この行為の初期段階はすでに5歳児にも見ることができて、強く叱られれば叱られるほど、悪い行動を繰り返す。叱られたことで自分への愛が心配になって、何度も愛を試したいという心理なのではないか。

重松清の「とんび」という小説が好きで何度も読んでいるが、こんなシーンがあった。息子が部活動で問題を起こしたときに、シングルファザーの主人公が呼ばれ、被害者の親から退部届を書くように言れるが、それを突っぱねたあとのやり取り。
「甘いことをされたら困りますな」
「アホかわりゃ。親が子供を甘やかさんかったら誰が甘やかすんなアホ。」
「親の責任はどうするんですか?」
「責任?責任より愛のほうが大事じゃ」

仕事中にマウスを奪わない。床に食べ物を落とさない。クレヨンしんちゃんを3話以上見ない。ちんちんって言わない。。いずれも将来のために大切な教育であり、親にはそういう指導をする責任があるが、なによりも大切なものは愛であることを忘れてはいけない。
(言うのは簡単。みんな頑張れ!)

 

退屈な親、寛容な大人について

最近思うことをとりとめなく・・・・。
大した内容はありません。

「君らが生まれる前は、君らの両親は今のように退屈な人たちではなかった。そんな風になったのは、君らのために支払いをし、服を洗い、君らがどんなにイケてるか、という自慢を聞いているうちにそうなったのだ。」
ビル・ゲイツが言った言葉らしい。彼ならお金の力ですべて解決できそうなものの、そういう庶民の家庭の事情もよく分かっていてくれているからこそ、大富豪になれたのかもね。

今でこそ親の立場で、親には親の事情があることはよく分かるが確かに子供の頃は両親のことをつまらない人間だなと感じていた。でも実家の押入れから出てきた、自分が生まれる前の両親が若い頃二人で旅行している写真などを見たときに感じた不思議な感覚というのはまさにそれで、例外はいるだろうけど、親という選択は、自分の時間とお金の多くを自分のため以外に割くことで、退屈な人間になることを当たり前に選ぶ行為だ。

「選択する」と言っても、大半の人は覚悟を持って決意するようなことはしておらず、無意識にまぁ仕方ないなという自分自身の納得を以て退屈人間になったと思う。僕はそうだ。
だけどそういうときに悩ましいのは、その後の自分の人生において「ここぞ!」という仕事があったり、挑戦があったときにどうすればいいんだろうね。

思い出すのは、だいぶ前だが朝ドラ「半分、青い」で、ヒロインと結婚した映画監督志望の男が、娘の5歳の誕生日に「(芸術を追求する)夢のために、家族は邪魔になる」といって離婚を申し出たシーン。思わず「ひど・・」と言ってしまったが、世の中の大半も茅野愛衣側につくだろう。
まぁ自分の場合、目下の、家事育児との両立に絡む悩みは別に人生をかけた挑戦でもないし、比べるようなことではないんだけど。

世の中の凡人たちが、仕事と家庭のバランスを取る方法は、妻との家事の分担。休日の育児の当番制などの運用によって解決できる問題が大半だ。そこにも年収、働き方、子供の年齢、性格、発達状況等様々な各家庭の前提条件があって、万能な解決策などはなく、夫婦のいざこざの納得方法はググってもどこにも解決策は書いていない。だから離婚によって解決する人も、それ以外の方法で解決する人も、「諦める」という解決を選ぶ人も、彼らの選択にいずれも外野が文句を言うべきものではない。

自分がたまたま恵まれていただけなのかもしれないが、自分の周りの人は年齢が上がるとそういうことに対して寛容になる人が増えるなぁと感じる。育児はそれを学べる一つの方法で、理不尽なことやどうしようもないことを経験している人は、他の人の至らないところに対して寛容で、「みんなそれぞれ事情がある」ことを前提に仕事を回して
くれているように思う。育児に限らず、介護や場合によっては過去の問題がある労働環境なども学びを得る場なのかもしれない。いずれにしても、例外はあるだろうが年齢とともに寛容になる人が多いというのは自分の観測範囲での結論だ。
自分も20代とかは「働かないおじさんムカつくよな」とかいう不満を持ったりしたこともあったが、最近は自分が大きく被害を受けない限りは、働かない人がいても何も感じることはなくなった。その人にはその人の事情があるのだろうから。

世の中全体の働き方が良くなっているというのも大きい。それによって、これからの日本が大きく成長することはなくなってしまうのかもしれないが、周りが寛容であれば、みんな自分でできる範囲で頑張って、自分のペースで結果をだすことで十分な満足が得られる社会を作れる。そういったできることをやったという満足感は、最終的には全体にとってもよい効果をもたらすはずであり、みんなを無理やり管理して、他人が決めた目標を達成させることよりも大きな成長をもたらすこともあるのではないだろうか。

ストイックで自分にも周りにも厳しく、なにかに打ち込んでいる人はすごいかっこよく見えるかもしれないが、みんながそれをできるわけではない。寛容な大人は子供からみると退屈な人間に見えてしまうのだ。

冒頭のビル・ゲイツの言葉は、次の一文に続いている。「親の時代から生存する寄生虫から森を守る前に、自分の洋服ダンスのダニ駆除から始めよう。」

 

 

人生に影響与えたかもしれない言葉とか

技術ブログをやろうと思っていたのに最近の投稿ポエミーなものばっかりになっているような気もするが、アフィも貼りたいしそれもまたよし。

 

・「僕の人生の今は何章目ぐらいだろう」

ウルフルズの曲。普段音楽を聞いたりはほとんどしないんだけど、多かれ少なかれ人生の節目に来たときにこの曲を思い出すし聞きたくなる。

今はどの辺りだろう
どの辺まで来ただろう
僕の人生の今は何章目ぐらいだろう

普段の生活の中では、目の前のことにしか目が行かないわけだけど、良いときも悪いときも一旦立ち止まって、この歌詞のような問いかけを自分にすると冷静に判断ができるような気がする。
今自分が人生の何章目にいるのかということを考えると、「まだまだ序章、ここは攻めよう」なんて思ったりね。

 

誰かのツイート

最近、印象深かった誰かのツイート。自分も孤独な老人になって、昔のことを思い出すくらいしかすることがない日々がくるだろうから、写真をたくさんとって映像としても残しておかないといけないなぁと思った。
老後はきっと長い。息子の0歳から10歳まで24時間365日撮っておいても、老後70歳から80歳までの間に見終わったら、もうその後することがない。
なんならすでに息子から「ここ前も来たことあるよね」とか言われて何も思い出せなかったりすることもあって、記憶力が終わり始めているので、ボケ防止にも思い出を大切にする必要がある。


「そのひと言が言えたなら、この先ずっと誇れる自分でいられた。同じ場面を与えられることは二度とない。その一瞬一瞬に、人の生きざまは決まるのだ。

昔読んだ小説。横山秀夫クライマーズ・ハイ」の一節。みんな夜に一日の出来事を思い出すときに「あそこでああ言っとけばよかった」とか思うことがあるんじゃないかと思うけど、僕はいつもそこでこの一文を思い出す。
自分も恥の多い人生のため、勇気がでないとかプライドが邪魔するとかいろいろな理由で、「あのとき」の後悔が湧いてくることもあるが、もうそれはどうすることもできない。
その場面において自分の言動に後悔がないものかを判断していくしかないわけで、そこに必要なのは自分の軸があることと、それに忠実に動くということなのだろう。

 

 

希望によって未来はつくられる

親ガチャという言葉が流行っているそうだ。
https://togetter.com/li/1774473

自分の現状は、親の年収、容姿、教育など様々な「ガチャ」的要素によって作り出されているというのは実際のところ事実であろう。
成功した人は本人の努力だと言うだろし、くすぶっている人間に限ってこの言葉を使っているという批判をしている人もいるだろう。ただ努力できるということも親から様々な要素を引き継いだ結果可能になるものだ。

なかなか残酷な問題ではあると思うが、「ガチャ」というライトの響きによって、親から代々引き継いだダメな要素があるから今の自分が浮かばれないのは仕方ないという形で、自分を納得させる言葉にもなっているのではないかと思う。
そしてSNSで拡散され、似たような境遇の人々に共有される。
格差が広がり、固定化されている社会においては、とても相性が良いのだと思う。少し前には「上級国民」という言葉も流行ったが、いずれもそうやってレッテルを貼ることで現状を受け入れようというある種の薬でもあるのだろうが、人間の希望や向上心を打ち砕く毒でもあるのではないだろうか。

10年以上前だが、希望格差社会という本が流行ったことがある。いわゆる「負け組」という人々は競争社会において誰も手を差し伸べてくれないという状況が生まれ、それが「希望」をも失ってしまうということに繋がる。「希望」にも格差がある社会を迎えているという内容だった。
最近の情勢はかつて程、グローバル化という言葉を聞かなくなり、若者の間でも競争することに価値を見いだす人がすくないような印象を受ける。それでも日本全体の貧困化や目に見える格差の拡大によって「負け組」を救うということがより難しい社会は継続しているのだろう。
救われない「負け組」は努力することをやめて「親ガチャに失敗した」と嘆き「上級国民は優遇されている」と不満を言うしか、現実を受け入れるすべはない。希望格差社会はずっと拡大しているのだと思う。

wikipediaによると希望とは「好ましい事物の実現を望むこと」とある。何かを良い方向にすすめるためには、なによりも最初に希望を持つという行為が必要である。
何も望まないのにある日、お金や美貌や頭脳や地位が手に入ることはない。努力して手に入れるような類のものであったとしても、希望をもつからこそ努力をするのであって、よりよい自分を実現する第一歩として「希望を持つ」が必要なのだと思う。
みんながもつ様々な希望が、経済成長や技術革新を生み、いまよりもっと楽しい社会が作られるのである。
自己責任論で負け組を切り捨てることは、ある種の快感をも伴う。ただ、そうやって救いを立たれた負け組が失う「希望」の社会的損失を考えると、「勝ち組」も回り回って影響を受けることになる。
ただ、経済が成長することで個々人の未来についても希望が持てるというのが一般的な話であり、貧困化する中で希望だけを持つということは簡単ではない。未来が明るい社会を示すこと、作ることが、個々人の中に希望をもたせるという前提があるわけで、そこは自己責任に議論を終わらせてはいけない。

コロナ渦においては未来の議論はあまり進まない。すごく瀬戸際だと思うが、コロナがある程度収束したときにかこのある程度のしがらみがなくなっていて、ここからどうしよう、どうしていこうと考えるタイミングが来るだろう。その時、日本のみんな達、特に若い世代が、漫然と未来についてどう思うのか、その契機は、総裁選、テーパリング終了、エバーグランデの破綻危機、そしてコロナ収束と近く迫るイベントに左右される気がする。